2017年☆亀八人形☆山内一豊と妻☆

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山内一豊と妻


山内 一豊(やまうち かずとよ)

天文14(1545)年(※1) - 慶長10(1605)年

戦国・安土桃山時代の武将。信長、秀吉、家康の三人に仕えた。

山内但馬守盛豊の二男として尾張に生まれる。

幼名は辰之助。元服後は、伊右衛門、一豊と名乗る。
一豊は(かつとよ)とも。

※ 1:天文15年とも言われている。
※ 2:三男とも言われている。


山内 千代(やまうち ちよ)

山内一豊の妻。一豊を内助の功で支えた。

その内助の功によって、一豊は出世できたと言われている。
賢妻として有名である。


1:浪人から土佐24万石の大名までの軌跡

一豊の父・盛豊は織田信安方に仕えていました。

家老となり葉栗郡の黒田城を預かっていました。

一豊15歳の時、織田信長による岩倉城攻めにより、父が討死。

城を追われ、織田浪人として流浪の時を過ごします。

後に身を寄せた牧村政倫が信長の家臣となった頃、信長に仕えるようになったようです。

一豊は金ヶ崎、姉川の戦において活躍。

矢が顔面を貫通するという深手を負いながらも、敵将を討ち取ったという逸話もあります。

この手柄によって、秀吉の領国の一部を信長から与えられ、

戦国武将・山内一豊としてスタートを切ったのです。

信長が倒れた本能寺の変の後は、秀吉に従いました。

天下統一後は播磨に大名として配置され、掛川城に入城(一豊48歳)。

城郭、城下町づくりや治水などに取り組み、掛川を発展させていきました。

秀吉亡き後は、早くから家康に忠誠を見せ、妻の助けもあって家康の信頼を得ていきました。

そして慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐24万石へと大抜擢され、

一国一城の主となったわけです。

※ 一豊13歳の時、信長による黒田城襲撃により討死とも言われるが、不詳。


2:妻・千代の内助の功

山内一豊の妻・千代。

生まれはいくつか説がありますが、近年裏づけ資料の発見などにより郡上八幡説が注目されており、

有力かもしれません。

しかし、決定づける資料が十分揃っているわけでなく、はっきりとは言えません。

非常に教養高い人で、政治・外交的にも優れていました。

一豊没後もその政治・外交力を発揮していました。

まだ、一豊が織田家の一家臣でしかなかった頃、近く馬揃えがありました。

馬揃えとは、簡単に言えば、近く行なわれる戦の前に、馬を一堂に集めてその検分をするもの。

その頃来た馬売りが連れてきた駿馬を見て、欲しいと思うが金がなかった。

それをみかねた妻・千代は夫に何かあったらと父から嫁入りの時に渡された

10両を一豊に渡した。

そして、一豊はその10両でその馬を買った。

そのみごとな馬は信長の目をひき、感心も得ました。

秀吉の没後、権力争いの動きが見え始め、再び戦乱の世へと傾いていました。

一豊は早くから家康に対して忠誠を見せていました。

関ヶ原の戦の前には、大阪にいる千代は、石田三成の監視下に置かれながらも

夫・一豊に豊臣側の情報を送りました。

一豊は千代から自分はどうなってもいいから、家康に忠義をつくしなさいという

内容の密書を受け取ります。

千代はその密書を開封せずに家康に渡す事を言付けます。

一豊はその千代の言葉通り、開封することなく家康に密書を渡し、

自分の忠義を示したのです。

この二つの逸話は有名で、千代の内助の功によって出世できたとも言われる所以です。


※Wikipediaより※
※写真提供・袋井・村松氏※


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