遠州森のまつり☆歴史編5☆

遠州森のまつり☆歴史編5☆

~江戸文久編5~

翌9月12日の朝、本町総代一同が前述の内容を記した

嘆願書を磐田の中泉御役所(代官所)に提出し御出役を請願した。

しかし、腰の重い御役所ではすぐには出役しなかったため翌9月13日、

今度は本町のお百姓数人が中泉御役所に嘆願書を提出し、

再度御出役を願った。

その後、ようやく御役所から役人が来て下川原町の事件の主謀者達を逮捕し、

身柄を森町村地頭所に引き渡した。

下川原町の人々は罪を認め、謝罪と逮捕者の免罪を請願するために詫び書を提出している。

その中に“森町村に於て本町と相唱え親町である事については、

今後のお祭りの事はもちろん平常の何事にもご指示を受け、

この町(下川原町)が一位であるという考えは口にしません”(下川原町が御役所に出した詫び書による)とある。

これから推察するに、森町大繁盛期には本町が下川原町の人を使い、

主従関係にあった事は間違いなさそうである。

その後、町が衰退し始め、下川原町の連中が本町の恩を忘れて

威張り出した為にこのような事件が起きたのではないかと考えられる。

しかし、これはあくまでも推察であって、この当時の町関係をどう理解するかは読者に任せる。

下川原町の出した詫び書によって事件の主謀者達は

無罪放免、家屋の修繕費は下川原町が全面約に支払うということで決着し、

事件は一件落着した、かにみえた。

ところが、詫び書を出して許してもらったはずの下川原町の若者が、

今度は新町、中町、上川原町と手を組んで本町を無視し、

いわれなき規定を定めて本町をないがしろにしたのである。

これが原因で更なる大事件に発展するところであったが、森町村を含む知行所七か村の村役人がこれを治め、

大事に至らずに済んだ。

最後に七か村の村役人が中泉御役所へ以下のような誓約書を

提出して事件はようやく幕を閉じたのである。

“今後は下川原町の人々だけでなく、他の上町と共に以前の通り仲良くし、

少しも前々と違うことのないよう厳重に申し聞かせます。

どのような心得違いがあっても私たちが出て其の町内へ

いささかも御心配を掛けません。後日のために七か村で印を押して一札差し出します。よってこの通りです”


これは文久3年に起きた本町と下川原町の大喧嘩ではなく、

森町村全体の大事件であった。

この事件後数年間、森の祭りは中断してしまうのである。

この頃、世の中は倒幕に向かって大きく動いていた。

この年の8月17日、薩摩、会津などの公武合体派の藩兵が京都御所から

三条実美(さんじょうさねとみ)ら急進派七公家を追放。

いわゆる8月17日の政変が起きている。

その頃の森町村の人々は世の中が動いている事など、知るよしも無かったであろう。

文久の大事件の5年後、幕府は滅ぼされて明治維新に突入し、森の祭りもまた新たな幕開けへと移り行くのである。


※森の祭りHPより引用※

歴史・江戸文久編終わり


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