遠州森のまつり☆歴史編6☆
~明治・大正編~
文久3年の大事件以降祭りは一旦中止された。
その後、数十年間祭りは中断されたままであったという見方が有力であったが、
実は文久の大事件から僅か5年後、つまり明治元年には既に祭りが
再開されていたのではないかという説が浮上してきた。
しかし、この資料に関しては町役場当局が公表したものではないため確実性に欠けてしまうが、
祭り好きな森町の人々の気質を考えると10年も20年も祭りが中断していたとは考えにくい。
従って明治初期には祭りが再開されたと見るのが妥当であろう。
残念ながら明治時代初期の祭りに関する資料が非常に少ない。
確実なものとしては、明治16年から現在に至るまで
沿海社に受け継がれている祭典記録(沿海社記録帳)がある。
また比雲社には明治9年の比雲社社員名簿が保存されている。
更に、当時中町在住の岡野八郎氏、岡野五郎三郎氏が明治20年から
44年まで書き記した日記が発見された。
これらをもとにして明治時代の祭りを振り返ってみたい。
江戸時代森町村に於て、新町、本町、中町、上河原町、下河原町の
屋台があったことは先の古文書によって立証されている。
しかし、屋台の名前を“社”と称していたかどうかは不明である。
明治に入ってから一番古い中町の記録を見ると比雲社と既に書いてある。
少なくとも明治以降は各町内を“社”と称して祭り運営をしていたことは確かである。
この場合“社”にはいくつかの意味があるのだが、その中に“土地の神をまつる祭り”あるいは“仲間”とある。
これをそのまま引用すると“社”とは屋台本体を指すのではなく、
三嶋神社という氏神様をまつる氏子たちの同志的団体という意味となる。
ちなみに、浜松祭りでは“組”といい、徳島の阿波踊りでは“連”という。
“社”の方がいかにも祭礼を執り行なう氏子たちの集まりという感じがしてならないがどうだろう。
森町村の先人に感謝申し上げたい。
※森の祭りHPより引用※
関連記事